太平洋戦争におけるアメリカの切り替わりの早さ2018/12/06 22:02

太平洋戦争におけるアメリカの切り替わりの早さ

工業力拡大のポテンシャルはあったが、昭和16年当時ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていたものの、アメリカは大戦に参戦しておらず、アメリカでのあらゆる物資の生産は平時体制であった。アメリカでは、日本の中国や南シナの占領は政治的には大問題でも、アメリカの民主政治を動かす国民一般からみると遠い世界の出来事で、中華民国はアメリカ国内で様々な宣伝活動を行っていたものの、一般人にそれほど大きな関心があったとは思えない。日本が真珠湾奇襲を行った際に、ハワイの人の中にはドイツ軍が攻めてきたと思った人もいたそうである。日本軍による攻撃と聞いても、なぜ日本がハワイを攻撃する必要があるのかわからなかった人も多かったようである。

 一般に、大勢の気持ちつまり世論を一気に変えるのは容易でない。ヨーロッパを助けたいルーズベルト大統領はそこに苦心していた。そういうアメリカの世論は日本軍による真珠湾奇襲とそれを利用した米国政府の戦意高揚宣伝によって大きく変わった。軍需物資や船舶、航空機の生産体制が国民の一致団結の下に急速に大幅に拡大された。いや、それまで生産拡大を狙っていた人々が直面していた世論という障壁がなくなったと言った方が適切かもしれない。また、世論をバックに軍の動員も円滑に進むようになった。その変わり身の早さがものすごい。おそらく1~2か月内には人々の意識が変わり、戦時体制に移行した、つまり軍事物資生産のためのインフラ整備(飛行機や銃砲の工場の建設、船舶用ドックの建設、缶詰など食料生産工場の拡充、兵器の研究開発の推進など)がアメリカ全土で急速に始まったようである。

 一方、戦いを仕掛けた側の日本の軍事物資生産のためのインフラ整備は、(日中戦争には対応していたものの)対米戦については何もしていなかった。東条内閣は昭和17年は特別な対応を何も取らなかったと言っている。戦時生産体制をあわてて見直し始めるのは昭和18年に入ってからである。しかし、その時にはアメリカの無制限潜水艦作成などで資源の輸送は途切れがちになっていた。

 昭和17年頃まではアメリカもそれまでの手持ちの戦力で戦うしかなかったが、昭和18年後半になると昭和16年末から動き出した大量戦時生産体制の成果がではじめる。昭和16年末から動き出した圧倒的な工業力を持つアメリカと、昭和18年から動き出した非力な工業力の日本との戦力差(航空機、船舶、銃砲、弾薬など)は、量だけとってみても昭和18年後半には桁違いの差となっていた。

 インフラを整えて実際に生産が始まり、それを人々が利用できるようになるには時間がかかる(さらに飛行機や軍艦は乗員の訓練期間が必要になる)。昭和18年後半という開戦から早期の時期にこれほど差ができたのは、アメリカが通常は1年位かかっても不思議でない体制の切り替えが昭和16年末に一気に行われたからである。皮肉にも日本の真珠湾攻撃がアメリカの世論を変えて、潜在していた能力の全開に一役買ったことは否めない。

 一般には、戦いは仕掛ける方に準備を含めて主導権がある(独ソ戦などを見てもわかる)。こと生産インフラについては、太平洋戦線において戦争を仕掛けた方の日本の準備は遅れ、仕掛けられたアメリカは急速に整備して十分な準備を整えてから反撃に移れたと言える。昭和18年までで既にかなり消耗してしまった日本軍には、新たに整備されたアメリカ軍の戦力に対抗する力はなく、また守勢を固めるための物資も準備期間も十分になかった。わずか1年間でギルバート諸島(マキン・タラワ)からフィリピン南部(レイテ島)まで約5000kmを押し返される(この時点で南方の資源は途切れ、実質勝負はついている)。これはアメリカの巨大な工業力の素早い立ち上がりを可能にしたアメリカ国民の意識の切り替わりの早さが大きく寄与しているのではないか。