直径45メートルの小惑星、16日未明に最接近と思っていたら2013/02/16 00:08

直径45メートルの小惑星、16日未明に最接近と思っていたら

小惑星が地球に接近する。地球の約2万7700キロメートル上空を通過するそうである。ずいぶん遠そうだが、ひまわりなどの静止衛星は約3万6000キロメートルなので、それよりは近い。地球への影響はなさそうだが、もしこのクラスの小惑星が地球に衝突すると、大変なこととなる。


1908年6月30日にシベリアで起きた大爆発は、隕石が落ちたためと言われている。その際は、半径約30キロメートルの森林が炎上し、1000キロメートル離れた所の家でも窓ガラスが割れたという。その隕石の大きさは、数十メートルの大きさと言われている。原因については、詳しいことは分かっていないのだが、もし大気圏に突入した隕石が、大気との摩擦で高熱になり爆発すると、ものすごいエネルギーを出すことが分かっている。45メートルの小惑星でも、半径数百キロメートルは壊滅するかもしれない。おそろしい事である。

 

と思っていたらロシアのチェリャビンスクで、隕石が落ちた。直径数メートルくらいの可能性がある。15日11時半時点で、負傷者は1000名以上だという。おそらく隕石の大きさがちょっと大きかったり、コースがずれていれば、桁違いに被害者が増えていたかもしれない。先のことはわからない。明日の朝、無事に目が覚めることを祈っている。


けあらし2013/02/13 22:30

けあらし

 

けあらしという現象がある。水面近くの大気の温度が水の表面温度よりかなり低いと、水面から水蒸気が湧く。坪井川でもけあらしが見られた。これは熊本は盆地で気温が下がりやすいのに対して、川の水は地下水も含んでおり、比較的水温が高いためと思われる。なかなか幻想的な雰囲気となる。また、NHKの付近を境に、水蒸気が上流側と下流側に発散するように、流れている。これは地形の関係で山風がこの付近で降りてくると考えられる。そのため、けあらしの水蒸気を上流側と下流側へ追いやっている。

けあらし

アンリ・ルソー 蛇使いの女2012/12/18 20:39

アンリ・ルソー 蛇使いの女

 

蛇使いとは何だろう。この絵のキーポイントなのだが、私が思い出すのは、コブラ使いのようなイメージしかない。しかし、若い人にはそれさえ知らない人もいるだろう。

私にはこの絵からは笛の音が聞こえてこない。ジャングルは静まりかえったままである。しかし、この蛇使いがいるからこの絵の蛇などの動物は、コントロールされ、静寂と秩序が保たれている。きっと、笛を吹いているのだ。笛は吹かれているが音は聞こえないのに違いない。この不気味だがどこか懐かしい雰囲気は何だろうか?

 

熱帯のジャングルという原始的なイメージと月明かりの逆光という冴えたイメージが融合している。神秘と平和。その中で、聞こえない笛の音が全体を統一してコントロールしている。

 

それにしても、ルソーの他の絵には、これほど迫力があるものはない。ピカソやゴーギャンはルソーを買っていたようだが、この絵までルソーはサロンでからかわれ、嘲笑されていた。死んだ奥さんが舞い降りて書かせたとも言う。この1枚が、20世紀の絵画の進む道を決めた。


ルソー 蛇使いの女

時間の尺度による価値観2012/12/09 12:47

時間の尺度による価値観

 

近年、人々が考える価値観の時間スケールが短くなっている。要するに、目の前の利害しか考えないと言うことだ。その理由はよくわからなかったが、都市化、あるいは、都会化というのは、効率という面からはメリットも多いが、時間を奪うという観点がある。都会は、便利な反面、その便利を供給している人々への要求も厳しくなり、その向上が許容の厳格をもたらし、それが回り回って自分によりストレスをもたらすという悪循環を生じている。

 

そのストレスに耐えるためには、人間の五感に対するしきい値を上げる(鈍感になる)しかない。最低限(つまり最も厳しい要求)のものだけに反応するようになると言うことだ。そして、その結果失っているものの一つが時間である。例えば「締め切り」時間というものが、ただその時刻1点への集中のみを要求するようになり、途中の時間の流れを感じさせなくなる。締め切りを満たせば、次の締め切り時刻に向けてばく進するのみである。空や風などの自然の中の時間を感じるゆとり、時間が流れる感覚は遮断される。それを内田樹は、都会は「過去と未来に拡がる未知性を捨象した『無時間モデル』を要求する」と言っている。

 

そして、その結果が、目の前の事にしか考えが及ばなくなっている社会を形作っているのではないか。例えば地球温暖化やインフラの老朽化などの問題は、目の前の利害を捨てて、遠い時間の地平への想像力を要求する(国債の問題もそうなんじゃないの?目の前の景気刺激より)。そういう力が現代人からだんだん失われていると言うことだ。私は原発問題も、人間の技術を使っている限り、目の前の便利さをとるか、将来の安全性への可能性をとるかという価値観の問題だと見ている。今の世の中は、全般的に効率化を求めすぎて、過剰適応に陥っているのではないかと思う。過剰適応というのは、「現状には最適であるが適応しすぎて、少しでも状況が変わるとついて行けなくなる」という状況を指している。かつての恐竜のように、適応しすぎて環境変化について行けず、滅んだ生物は数多い。人間で言うと、「考え方が固定して柔軟な発想が乏しくなり、現状がずっと続くという幻想にとらわれる」ということだ。環境とは自然環境だけでなく、人間が作り出した環境(経済など)も、その意図とはうらはらに変わっていくのだ。

 

内田樹は、遠い先のことを想像する力をつけるには、自然の体感、つまり自然の音楽を聴き取るのが良いという。しかし、都会の喧噪の中で自然に想いを馳せるのは、そう意図しても状況に流されがちになり、難しそうである。


林間残照図 橋本雅邦2012/11/27 22:26

林間残照図 橋本雅邦

 

美の巨人たち(キリン提供)より。橋本雅邦は、元は正統的な狩野派の画家だが、その伝統を破って新しい日本画を創造した。この絵は、1903年にセントルイス万博で最高賞を受賞した。

 

明治に入って、日本の欧化政策で日本の絵画は風前の灯だった。彼は、狩野派の画家だったが、仕事が無く海軍で西洋画と出会い、西洋の技法を研究した。当時、フェノロサが伝統的な日本の画法を日本画と命名。岡倉天心が世界に通用する日本画を作らないかと橋本雅邦に提案する。その中で、この絵は日本政府から国策としてセントルイス万博に出品するために作成を依頼される。当時の国威発揚のために、個人の名声を超越して出品したものに違いない。その重責は、現代の平和かつ安泰な生活からは想像を絶する。

 

林間残照図は、一見、西洋画風であるが、山水画の骨格を持っている。木立は線が細くフランス画風。空気遠近法にて奥行きを出している。一方、山肌や川は、典型的な狩野派の輪郭線で、その質感を高めている。上半分近くは何も描かれていないが、山水画同様にそこが核心となっている。新しい日本画の登場である。

 

弟子に、横山大観、菱田春草、下山観山などがいた。彼らの絵が朦朧体に走った際に、絵は技術でなく心持ちであると自らの絵で示した。

林間残照図