ある人の思い出2013/02/21 00:07

ある人の思い出

 

今からざっと20年以上前、あるアマチュアオーケストラにいた。定期演奏会で、シベリウスのバイオリン協奏曲を演奏することになり、ある若手の学生の女性バイオリニストを呼んで、演奏会を行った。そのバイオリニストは、ほっそりした体からは思いもかけない鮮烈な音を奏でていた。まだ学生ながら堂々としたシベリウスだった。私は練習時に代奏はしたかもしれないが、本番ではシベリウスの時にはステージに乗ってはいない。

本番後しばらく経って、郊外を走る高速バスに乗る際に列に並んでいたら、列が動き出してちょうど列が交差したところで、そのバイオリニストと出会った。彼女の方から、「オーケストラの人ですよね」と声を掛けてくれた。実は、私はその時まで、彼女と気づかなかった。彼女が覚えていてくれたのが大変うれしかったの覚えている。それから10年以上経ってからのことである、彼女が世界最高峰のベルリンフィルの首席ヴィオラ奏者になったのを知ったのは。彼女こそが清水直子さんだった。


バッハフルートソナタBWV10332012/09/17 16:32

バッハフルートソナタBWV1033

 

バッハのフルートソナタに、ハ長調BWV1033というのがある。正確に言うとバッハの作とは確定しておらず、今のところ正確には誰の作かはわからない。しかし、一応バッハのフルートソナタ全集などには含まれることが多い。この曲がバッハの作でないとされる一因として、その作風がある。3楽章と4楽章はそれなりにバッハらしいのだが、1楽章後半と2楽章が、一見して単調な8分音符ばかりとなり、バッハらしくない。これをある音楽批評家は練習曲のようだとも言い、演奏はそれほど難しくないと言っている。

 

確かに単調な8分音符が続くのは練習曲のようであるが、演奏は決して易しくない。指を回すだけならば簡単かもしれないが、高低差のある音程を8分音符で正確に吹いて、それなりに聞かせようとすると、格段に難しくなる(単純な練習曲も、音楽として聴かせようとすると難しいものが多い)。バッハの他のソナタは、アマチュアでも下手なりに聞ける演奏になることが多い。しかし、このソナタは、下手なアマチュアでは演奏にならないと言った方が良いかもしれない。

 

曲になるかならないかの違いは、私は喉のトレーニングだと思っている。単に息を入れて指を回しても演奏にならない。音符に高低差があっても、音を滑らかに聞かせるための喉のトレーニングをきちんと積んでおく必要がある。ある意味、プロとアマに違いを際立たせる曲とも言えようか。アマチュアにとっては非常にしきい値が高い曲である。


アマチュアのブラスバンドは何を目指すべきか?2012/05/05 20:31

今回は、アマチュアバンドの方向性について考えたい。

 

私は、かつていくつかブラスバンドに属していたことがある。何か楽器に取り組めば、うまくなりたい、うまいと言われたいと思うのは当然である。それが、練習しよう、上達しようという動機・意欲となる。但し、これは個人の話である。団体のアマチュアバンドとなると少し違うのではないか?

 

コンクールなど自分のバンドの評価を気にする人は多い。アマチュアのブラスバンドの団員が自分のバンドの良い評価を得たいと思う動機は何であろうか?バンドを個人格としてみれば、個人と同じ考えが成り立つかもしれないが、それと団員との関係が私にはよくわからない。つまるところ、アマチュアで(それなりに)高い評価を得ているブラスバンドは、団員個人としては何を動機としてものすごい時間と労力を投入して練習をしているのだろうか?

 

人によって、いろんな考え方があるのだろうが、少なくとも私は、仮にそういう高い評価のバンドに所属して、他団体の人から「すごいですね」と言われても、少しもうれしくない。それは、溶け合ったバンドの音色の中でどこかに自分が貢献をしているかもしれないが、究極的にはバンドの評価は自分の評価ではないから。自分の評価を目指すならば、私はバンドの評価に力点を置くという手段はとらない。最初の個人の発想に戻るが、もっと自分の評価がストレートにでるアンサンブルやソロという手段をとるだろう。

 

もちろん、団体としての良い演奏を聴いてもらって、聴衆を感動させたいということも動機になるかもしれない。しかし、それは(結果としてそうなることがあるかもしれないが)当初の目的としてアマチュアが目指すべきことだろうか?人を感動させることは並大抵のことではない。プロが日夜研鑽を積んで、それに必死に取り組んでいるのである。アマチュアが簡単に成功するとは思えない。まあ、「アマチュアにしては」という条件付きで、ほめてくれる人はいるかもしれないが、それで満足なのか?

 

学生バンドや社会人バンドで、(コンクールを含めて)良い評価を得ようとして、日夜猛練習をしているバンドがある。しかし、そのために犠牲にしているものは時間だけとは思えない。原則としてプロのように入団時にふるいにかけるわけではないので(そういう所もあるらしいが)レベルがばらつくのは仕方がないことだと思える。しかし、うまいバンドを目指すと、必ず足かせになる人が出てくる。50人のバンドであれば、力量で1番から50番の順位のようなものがついてしまうからである。出来ていない人に「おいおい、しっかりやってくれよ」と言いたくなる人は多いのではないか?

 

その結果、たとえ直接言われなくとも、雰囲気で50番目の人は申し訳なくて日々針のむしろの上にいる心地になる。しかし、仮に50番目の人が辞めてしまうと、今度は49番目の人が同じ心境になってしまう。これはきりがないのだ。そして、いつかその順番が自分に回ってこないとは限らない。これに近い雰囲気のバンドは結構あるのではないか?うまいバンドほどこのジレンマに陥る可能性がある。全国大会3年連続金賞受賞後に多くの団員が辞め、ばらばらになりかけたバンドを知っている。

 

出来ていない人を非難の目で見るのは、(普段の練習をサボってるんじゃないのみたいな)性悪説に立っているからである。私は、演奏できない(指がこけたり、滑ったり、落っこちたりした)場合でもその人は最善を尽くした結果だったと考えていた。みんな仕事や家庭やいろんな所にいろんな事情を抱えているのだ。バンドの練習ばかりを最優先には出来ない。それでも、出来ることをすべてやった結果、練習場に来ていると考えていた。そして、その時その時の練習の瞬間に(もちろん本番でも)自分の持てる最高の力量を発揮しているのだ。どうして非難できようか?それでも、バンドの目指す先が「結果としての良い演奏」だと、それが許せなくなってしまう。ここが問題なのである。

 

では、何を目指すべきか?アマチュアにとってうまい演奏、良い演奏は手段であって目的ではないと考えている。私個人の考えは、アマチュアバンドの目的は(自分たちが)楽しい演奏である。もちろんぐちゃぐちゃな演奏では楽しめないから、それなりに上達は必要である。しかし失敗のない演奏が目的ではないので、仮に技術が十分でない人がいても、みんなでうまく盛り上げれば必ず楽しい演奏はできると考えている。「楽しさ」こそがアマチュアバンドの神髄なのではないか?

 

どんなにうまいプロでも、一人ではシンフォニーを演奏できない。力量を問わず大勢が集まって集団の音楽を作り上げるところに「楽しさ、おもしろさ」があるのではないか?うまいかどうかは二の次、三の次の問題だと思う。私は、お客さんも本当にうまい演奏を聴こうと思って演奏会場に来ているとは思っていない。それならば、プロの演奏会へ行けばよいのだ。アマチュアはうまい演奏でプロにかなうはずがない。しかし、もし自分たちが本当に楽しい演奏ができれば、それはお客さんにも伝わる場合がある。そういう経験は、逆にプロバンドの演奏会ではまずできない。お客から見た場合、アマチュアバンドにはそういうニーズや期待もあるかもしれない。

 

もし、ブラスバンドに入っている人がいれば、自分はバンドにいることを通して何を目指しているのか、もう一度よく考えてみると、何かが変わるかもしれない。