時間の尺度による価値観2012/12/09 12:47

時間の尺度による価値観

 

近年、人々が考える価値観の時間スケールが短くなっている。要するに、目の前の利害しか考えないと言うことだ。その理由はよくわからなかったが、都市化、あるいは、都会化というのは、効率という面からはメリットも多いが、時間を奪うという観点がある。都会は、便利な反面、その便利を供給している人々への要求も厳しくなり、その向上が許容の厳格をもたらし、それが回り回って自分によりストレスをもたらすという悪循環を生じている。

 

そのストレスに耐えるためには、人間の五感に対するしきい値を上げる(鈍感になる)しかない。最低限(つまり最も厳しい要求)のものだけに反応するようになると言うことだ。そして、その結果失っているものの一つが時間である。例えば「締め切り」時間というものが、ただその時刻1点への集中のみを要求するようになり、途中の時間の流れを感じさせなくなる。締め切りを満たせば、次の締め切り時刻に向けてばく進するのみである。空や風などの自然の中の時間を感じるゆとり、時間が流れる感覚は遮断される。それを内田樹は、都会は「過去と未来に拡がる未知性を捨象した『無時間モデル』を要求する」と言っている。

 

そして、その結果が、目の前の事にしか考えが及ばなくなっている社会を形作っているのではないか。例えば地球温暖化やインフラの老朽化などの問題は、目の前の利害を捨てて、遠い時間の地平への想像力を要求する(国債の問題もそうなんじゃないの?目の前の景気刺激より)。そういう力が現代人からだんだん失われていると言うことだ。私は原発問題も、人間の技術を使っている限り、目の前の便利さをとるか、将来の安全性への可能性をとるかという価値観の問題だと見ている。今の世の中は、全般的に効率化を求めすぎて、過剰適応に陥っているのではないかと思う。過剰適応というのは、「現状には最適であるが適応しすぎて、少しでも状況が変わるとついて行けなくなる」という状況を指している。かつての恐竜のように、適応しすぎて環境変化について行けず、滅んだ生物は数多い。人間で言うと、「考え方が固定して柔軟な発想が乏しくなり、現状がずっと続くという幻想にとらわれる」ということだ。環境とは自然環境だけでなく、人間が作り出した環境(経済など)も、その意図とはうらはらに変わっていくのだ。

 

内田樹は、遠い先のことを想像する力をつけるには、自然の体感、つまり自然の音楽を聴き取るのが良いという。しかし、都会の喧噪の中で自然に想いを馳せるのは、そう意図しても状況に流されがちになり、難しそうである。