おじぎ2012/07/02 22:13

土下座とおじぎ


熊本市の中心街に、下通り商店街がある。大きなアーケードであり、週末の夜になると大勢でにぎわう。ストリートライブなどもある。当然呼び込みのための居酒屋のチラシの配布などもあちこちで行われている。


先日、おもしろい光景を見た。チラシを配布しているお姉ちゃん(レディと言うべきか)が、酔っぱらったサラリーマンにチラシを配布しようとしたところ、そのままサラリーマンは土下座してしまった。どういう意図かはわからない。お姉ちゃんは当惑しているようだった。何度もおじぎをした後、立ち上がって、数言言葉をかけたかと思うと、お姉ちゃんに握手を要求して帰って行った。典型的な酔っぱらいである。最近は見かけなかったが、酔っ払うと土下座したりおじぎしたりしたくなる人々がある割合でいるのだろう。

その光景を見て、クレージキャツの五万節を思い出した。「呑んで帰って シメ出され雨戸におじぎを 五万回」というフレーズであるが、当時は酔っぱらっておじぎをする光景は決して珍しくなかったのかもしれない。熊本にはまだ古き伝統が残っていると言うべきか。

下通商店街アーケード


下通商店街アーケード(記事と対応はしていません)


「人間は考える葦である」2012/07/07 16:46

NHK 100分で名著 パスカル 第4回「人間は考える葦である」

 
パスカルの考え方。

l         理性は万能ではなく、限界がある。

l         世の中は因果関係だけでなく、偶然によって左右されることがある。

l         分析だけではわからず、直感が必要なこともある。

因果律では説明できないことがある。

 

同時代の対照的な哲学家デカルトの考え方は、「世界は因果関係で成り立っており、全てのことをメカニズムとして理解できる。人間もメカニズムで構成されており、それを追求していけば理解することが出来、そして制御できる。」という考え方。デカルトの「我思う故に我あり」という考え方も、最後に自分というものは一貫して変わらないという考え方を前提にしている。

 

しかし、パスカルの考え方は、ものごとは常に変わる。完成しない。人間も変わり続ける。過去の自分は今の自分と同じではない。たしかに現代では、人間の自己同一性は、分子レベルでは保たれていないことがわかっている。自然や社会も偶然に左右されながら変わり続けている。全てを知ることは出来ない。未来のことも誰にもわからない。

 

デカルトのメカニズム指向というのは、「全ては因果関係で説明できる。合理性はどんどん追求できる」ということ。現代は、デカルトの考え方を重視して、パスカルの考え方を捨ててしまった。しかし、人間による合理性の追求には、こぼれ落ちてしまうものがある。合理的=効率の最大化である。いろんなことについて、個別に効率化を突き詰めていくと、全体として、逆に不合理が出てくる。これが今日本が直面していること。

 

ものごとには終わりはない。だから、常に考え続けなければならない。人間の尊厳は、考え続けることにある。未完成であるがゆえに、それが考え続ける契機になっている。完成した段階で考えは止まってしまう。


桂花ラーメン2012/07/08 17:49

桂花ラーメン

 

熊本のラーメンと言えば、桂花ラーメンが有名。このことを知ったのは東京でした。30年近く前ですが、熊本出身の上司と新宿へ行ったときに、新宿の桂花ラーメンに連れて行ってくれました。

 

それを思い出して、下通り商店街近くの桂花ラーメンへ行きました。食べるのはその時以来です。まず香りですが、ニンニクの香りがします。スープは豚骨です。ニンニクはスープに溶け込んでおり、味としてはあまり主張をしてはいません。スープの味は見た目と逆であっさりです。

 

特徴はむしろ麺でしょう。博多の豚骨ラーメンに比べると、やや太めでまとまりがなく、バラバラした感じ。しかし食感はあります。また、ゆで(煮?)卵は、不思議な味でした。どうやって作ったかはわかりませんが、おいしかったです。

具は卵以外に、チャーシューとねぎ、メンマ、茎わかめでした。スープまでおいしくいただきました。

桂花ラーメン

浮き世2012/07/10 22:37

浮き世

 

浮き世とは、平安時代からある言葉だそうだ。もっとも当時は憂き世であって、極楽浄土と対比させて現世の憂いを示したものだったろう。それがいつしか享楽的な現世を示す浮き世という言葉に変わってしまったらしい。いかにも時に任せて浮かびながら流させるイメージを想像させる。

 

ところで、浮き世の英訳はfloating worldだそうである。Floating=「浮く」であるから、いかにも直訳のようにも見えるが、実はもっと奥が深い。Floatとはもともとギリシャ語の流れる意味であるfluereという言葉とつながっている。Fluid(流体)やfluent(流ちょうな)などの言葉とも近い。流感もfluである。するとfloating worldとは、浮きながら流れに身を任せる世界という意味になって、なるほど、日本語の浮き世のニュアンスとかなり近い。意外に、英語の感覚と日本語の感覚が近い場合があるのかと感心した。


科学と政治2012/07/14 14:35

科学と政治

 

アメリカ独立戦争では、イギリスとアメリカが戦争した。その最中に、イギリス海軍のクック船長が第3回目の世界周航の冒険をした。その際に、彼はハワイ諸島などを発見。その他、地理、生物、鉱物などの資料を収集していた。それを知った米国人ベンジャミン・フランクリンは、米国側についた全ての武装船にクック船長の船を攻撃、捕獲などしないように要請した。その理由は、クック船長の冒険から得たいろんなものや知識は、科学として人類全体に貢献すると判断したからである。実際にこの要請が行き渡ったときには、クック船長は1779年にハワイ諸島で既に殺されていたのだが。しかし、これに対して、イギリス王立協会は、敵国人フランクリンにクック船長の航海を記念するメダルを贈呈する。科学の自由を守った事を記念するために。当時、科学は中立であることを重んじられ、政治から独立していた。

 

同様なことは、種痘にもあった。フランスのナポレオンは、当時イギリスと戦っていた。しかし、イギリス人ジェンナーが発見した種痘を賞賛し、自らの子供に率先して種痘を受けさせてこれをフランスで広めるとともに、1804年にはジェンナーに対する敬意を表して美しい勲章を作成したと言われる。さらにナポレオンはパヴィア市を占領した際に、そこに留学していたジェンナーの弟子を、ジェンナー嘆願により、釈放したと言われる。

Aサトクリッフ、A・P・Dサトクリッフ著、エピソード科学史IIより)